途方に暮れなずむ

途方に暮れていたり、いなかったり。

この春の出来事

中くらいの人は、4月から晴れて高校生になる。

混沌とした状況の最中、てんやわんやな感情を言葉にして吐き出す気になれず、ブログに書き記すこともなく時が経ってしまったが、進学先が決まったのは、今月半ばのこと。

「お前はもう死んでいる」と同じくらいのトーンで「第一志望は9割落ちている」と中くらいの人が言うので、私は第一志望の合格発表日ではなく、その翌日に仕事を休むことにした。すでに合格通知をもらっていた私学の入学手続きを滞りなく進めるために。

あっさり「あ、落ちましたね」で突き進めるのであれば、それほどややこしいことではない。朝イチから粛々と手続きを進めればいいのだ。問題は、繰上げ合格。14時まではあるかないかわからない本命からの連絡を待って、不合格が確定したら、15時までに銀行にて入学金を振り込み、その足で16時までに私学の事務室にて手続きを完了させなければならない。とりあえず、私学の最寄りの銀行を調べ、その近辺で待機だな、などとキャパ小の頭をフルに使って計画を立てていた。

結局、中くらいの人はめでたく合格し、上記の計画を実行することはなかった。

 

ああ、よかった。そんな風にほっとした私に寄せられたのは「子どもの合格を信じとらんかったんか」とか「合格発表に一緒に行ってやらんかったんか」などという愛の野次。だって、落ちてるって言うんだもの。カンペキ死んだ魚のような目で言うんだもの。例の(本命に落ちた場合の)ばつぱつの計画を中くらいの人にさせるのは無理がある。だったら、その時動くのは私しかいないじゃないか。

と言いつつも、ネットで合格発表を確認した上で、高校に印鑑持参で書類を受け取りに行く、という工程を一人でこなした中くらいの人について「こやつ、大きくなったなあ」と感心したのも、事実。

昔、100円ショップで迷子になった時のこと。周りの大人に助けを求めることすら出来ず、店の隅っこに置いてあった踏み台に腰かけて、ひたすら静かに泣いていた中くらいの人の姿がよみがえる。助けて欲しい気持ちと恥ずかしさがせめぎ合う様子に、ただの小さい人ではなくなったな、と感じた。ここからは少し、生きづらくなるよ、とも。

今回、もしかしたら、合格そのものよりも、自分のために自分で行動できるようになったことの方が、私の胸を打ったかも知れない。たとえ私がいなくてもこの子は大丈夫、という根拠が欲しい。ひとつひとつが砂粒ほど小さくて頼りない根拠であったとしても、それを少しずつ集めていきたいし、集めないといけないと思っている。漠然と。

もちろん、合格もとてもとても嬉しいのだけど。

 

ところで、中学生ではなくなる彼を、今後も中くらいの人と呼び続けて良いものか、人知れず悩んでいる。特に高身長ではない彼を、高校生だからと言って「高い人」というのもピンとこない。そんなわけで、中くらいの人は、今後も中くらいの人でいいかなと思う今日この頃である。