途方に暮れなずむ

途方に暮れていたり、いなかったり。

さよならの気配

今シーズン唯一のセーターを仕上げたら、ぽっかりと穴があいた。何に?余暇の過ごし方に?はたまた私の心に?そんな感じの空虚。あれだけ放ったらかしで時間だけかけた一着。でも、手を離れると、とても寂しい。

積読してた三國万里子著「編めば編むほどわたしはわたしになっていった」を棚から取り出して、読み始めた。久しぶりに栞をはさみながら読む紙の本。最近はすっかり電子書籍ばかりになっていたので、かさりかさりとページをくる音すらも耳に心地良い。

 

 

 


ところで、年明け頃から何か別れの前兆めいたものを感じている。そして、それはとても薄らぼんやりとしていて、うまく言えないのがもどかしい。

振り返ってみると、節目節目にとてつもなく大きな何かが起きていた印象があるので、世の中で起きた(もしくは、起きている)あんなことやこんなことが起因しているのかも知れない。いや、もしかしたら、親がぼちぼち終活を考えだしたから、とか、近々退職する人がいるから、とか、友人の離婚が成立したから、とか、贔屓にしていた洋服屋が閉店してしまうから、といった身近な出来事のせいかも知れない。特別なことのない平々凡々とした日常が何よりも好物な自分にとっては、いささか落ち着かない日々。

そんな中、アクセサリーをなくした。ネックレスの留め具のはめ方がまずくて、チャームをふたつ、チェーンの端からぽとりぽとりと落としてしまったらしい。かろうじて首に引っかかっている状態のチェーンに気づいた瞬間は顔面蒼白になった。周辺を探してみたが、見つからなかった。家からの道のりのどこかで落としてしまったのだろう。小さな小さなチャームを見つけるなんて出来るわけない。想像するだけで絶望。なんだかさよならの妖精にも取り憑かれているし、そもそもなくしたチャームのうちのひとつはウン十年前の恋人からもらったものだった(その人に未練はないけれど、意匠が素敵だったので何となく手放せなかった)し、これもまた運命。むしろこれで厄払い的な展開になったのではないだろうか、などとお得意の火事場のポジティブ・シンキング(ただし、ここに至るまでは相当ヘコんでいる)で乗り切ろうとしていた。すると、どうだろう。たまたま近くを通りかかったおじさん(失礼、紳士!)が「あれ、これは何だろう」と私のチャームを手のひらに乗せて途方に暮れていたのだった。さらに、翌日にはもうひとつのチャームも私の元に戻ってきた。信じられない。

さよならの妖精にも、さよならされてしまったのかも知れない。